きみのひとでなし

ヴィジュアル・ミュージック・ラヴァーズ・オンリー

 あの夜、あの帰り道。何も言えず、何も聞こえず、夜空を振り仰ぎ、ただ泣きじゃくりながら歩き続けたのは、ひさしぶりのライヴで疲れてしまったから。貴方の歌のせいじゃない。

 世界は凄まじいスピードで革命を起こしつづけ、情報通の人々からのメッセージが、今夜も流星群のように夜空を飛び交う。私のポケットには、先週買い換えた携帯電話。地球に巣食った巨大な蜘蛛の巣の上を、いつ落ちるとも知れないリアルな恐怖など忘れたふりをして、私は器用に、そう、とても器用に、闊歩しつづけてここまで来た。滑らかに情報を引き出す手腕は鮮やかで、検索に要する時間を短縮することにのみ、心を砕いて私は生きていた。

 私は、お気に入りを見つけるのが得意だった。毎日の視界の隅を埋める、カラフルで、ラヴリーな、「ちょっと素敵なもの」を、こまごまと抱え込むのが好きだった。使い切れない化粧品。食べ切れない外国のお菓子。埋まり切らないピルケース。着け切れないアクセサリー。聴き切れないCD。たくさんの物を抱えて、あれやこれやと品定めする。今日はどれにしようかな。その時の気分で、好き勝手に選ぶ。お菓子の家は食べ放題。嫌いなものには罵り言葉。素直な気持ちを口にしているだけ。文句を言われる筋合いなんて、ないわ。私は何者にでもなれる。それが何者かを限定するのは、可能性を見殺すのと同じ、愚かなこと。それは最もスタイリッシュで、クールな生き様。私はきっと、そう信じていた。そして、それをやってのけている自分は、誰よりも美しい人種であると、私はきっと、そう思い込んでいた。

 私は欲張りすぎていたのかもしれない。理性の制御を超えて食べ過ぎた甘いお菓子は、脂肪となって、身体に徐々に蓄積される。安っぽい幸福感と引き換えに、身体はずしりと重くなり、やがて醜く膨張を始める。捨てられないと言って何もかもを抱え込む私の両腕は、いつでも何かに塞がっていて、貴方と握手をすることすらままならなかった。だから、私に差し伸べられた貴方の手を見つけたとき、私は激しく戸惑ったのだ。貴方の腕にこたえるには、抱えた荷物を少し、捨て去らなければならなかったから。それは、とても恐ろしいことだった。私の身体の上を通り過ぎていった、あらゆる出来事。もうここにはない全ての出来事の残骸を、私は常に、持ち歩いて生きてきたのだ。それを捨て去ることは、自分の過去を忘れ去ることと同義だと、私は疑いもせずに信じていた。

 しかし、貴方は私の戸惑いなど気にも止めない様子で、強引に私の手を取って走り始めてしまった。それは、満員電車に駆け込むような荒々しさでありながら、雨の日に窓を開けて外を眺めるようなしなやかさをもって、紳士的に私の領域に踏み込む行為だった。荷物を抱え込むようになってから、自分以外の誰かと繋がったことなどなかった私の手のひらは、興奮で汗ばんでいたと思う。腕から零れ落ちる様々な荷物を、私は最初、必死の形相でかき集めようとしていた。けれど、やがて、気が付いたのだ。荷物が手元から消え落ちてしまっても、それが、私の中から消滅してしまうことなど、決してないのだということに。

 サイバネスティックな蜘蛛の巣の上で、私は一体、何に怯えていたのだろう。私の荷物を粉砕したのは、貴方の歌声。風穴から舞い込んできたのは未来。今、この瞬間、私には何もいらない。私は生まれて始めて、この時代に生まれ落ちた自分の幸運を想った。私は死にたいと思ったことなどないし、生まれてきたくなかったと思ったこともない。その代わり、生まれてきて良かったと感じたことも、一度もなかった。けれど、すべてを手放したときに感じる、孤独と、自由。今まで、あちこちに散らばる点としてしか感じていなかったそれを、貴方の歌声が、一つの線に結びつけたとき。その線が未来に繋がっていることに気づいた瞬間、私は涙ぐみたいほどに狂喜したのだ。私に足りなかったもの、それは、未来だ。過去を抱え込んでいた私は、未来に背を向けたまま、後ろ歩きで進もうと試み、何度も無様に転んでは、不貞腐れて荷物を増やしていただけだったのだ。

 自分以外の何者かに人生を変えられるという、人生の貴重な楽しみのひとつを、私は知ってしまった。貴方と同じ時代に生まれたということ。その偶然を喜び、感謝し、奇跡のように感じることができる。それは、「生まれてきて良かった」という感情に限りなく似た、何かだ。

FIN
(2003/7/11 作)

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