きみのひとでなし

彼女は胸に魚を飼っている

 サカナコは人の姿をした水槽で、体内には六匹のエンゼルフィッシュが棲んでいる。

 彼女と話していると、時折、口の中からエンジェルフィッシュの尾がにょっきりと出てきては、小さく水しぶきを上げて、また体内に泳ぎ去ってゆく。彼女はいつも、二リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルを片手に下げ、ごくごくごくと飲んでいる。息をする代わりのように。一日に十リットル近くの水を飲み続けるのは、体内の水を循環させ、常にきれいな環境を整えておかなければならないからなのだそうだ。

 夏になると、サカナコはいつも、日中は海かプールにいて、そうでなければ自室のバスルームにいる。バスタブに水を張って、潜るか、浮かぶか。夏場の彼女は、だいたいいつでも水着を着ている。白いビキニの上に、白いタオル地のミニ丈のベアワンピースを身につけている。いつでも水に入れるように。水を見れば、ばっとワンピースを脱ぎ捨てて、飛び込んでいくのだ。しなやかに日に焼けた彼女の肌に、白い水着は、鮮やかなコントラストを描く。プールの塩素のせいで赤茶けたショートカットの髪を揺らしながら泳ぐ姿は、まるで彼女自身が新種のサカナであるかのようだ。

 この夏のきみのお気に入りはサカナコで、だから、きみがサカナコと一緒になって、芝生の上でホースの水をかけあって遊ぶ、その青白いくるぶしを眺めることができるのを僕は尊く思う。胸元がスクエアカットになったノースリーブの黒いワンピースを着たきみが、ミディレングスのスカートの裾と、腰まで届く長い黒髪を翻して、きらきらと光の反射する水を浴びながら、笑う。ステージの上で歌うとき以外ほとんど表情を変えることのないきみが、こんなにもすこやかな笑顔でそこに存在しているということに、僕は衝撃を覚える。きみは、サカナコに、何かを見ている。何かを重ねている。きみを微笑ませるほどの何か。それが何なのかを知りたくて、この夏、僕は、きみとサカナコから目が離せない。

 暑さが得意でないきみは、真夏になると、涼しい場所を求めてふらりと部屋を出ていってしまう。そのたびに僕は、このホリディという名のアパートメントの中を、きみを探して歩き回らなければならないのだけれど、この夏はさほど労せず探し出すことができた。

 きみの姿が見えなくなった夕暮れ、僕はサカナコの住む412号室を訪ねる。鍵のかかっていない扉を静かに押し開けて、こっそりと覗き見る。すると、焼けるような飴色の西日と、その日差しに照らされて伸びた建物の影とが交互に差し込んでいる部屋の中に、いるのだ。きみと、サカナコが。部屋の奥のフローリングの床の上、濃い影が落ちた、ほんの小さなその暗がりの中から、くすくすとひそやかな笑い声がたちのぼっている。

 首から上だけをクッションにもたせかけた姿勢で、床の上に仰向けに寝そべったサカナコは、いつものベアワンピース姿で、ぐびぐびとペットボトルから水を飲んでいる。そんなサカナコの素肌にぴったりと肌を合わせるようにして、きみの細い手足がサカナコに巻き付いている。サカナコの小麦色と、きみの白の対比。サカナコの身体は、夏場でもひんやりと冷たい。その冷たさに頬を寄せて、きみは囁く。

「こうして耳を当てていると、あなたの中のサカナたちの、泳ぐ水音が聞こえる」

 それがおもしろいのだといって、きみは笑う。すこやかに。そのすこやかさが不自然で、僕は、息が苦しくなる。おかしい、と思う。歪んでいる。何が? わからない。

 すこやかに歪んだ微笑みを浮かべたまま、きみは、サカナコの腕に沿って指を滑らせながら、問いかける。

「サカナコは人なの、サカナなの?」

「どちらでもないな。あんたこそ、どっちなの?」

「え?」

「あんたは人なの? それとも」

 きみの顔から、すこやかな笑みが消えた。ふいを突かれた様子で、黙り込む。サカナコの傾けたペットボトルが、たぷんとぬるい水音をたてる。きみは伸ばしていた指をひっこめて、胸元できゅっと小さく手を握った。

「わたしがサカナなら、わたしも、サカナコの中に棲めた?」

「さあ、どうかな。わたしは、外からサカナを受け入れたことはないし、わたしのサカナを外に出したこともないから」

「完結しているのね。うらやましい」

 うらやましい。

 きみはそう繰り返すと、むくりと身体を起こした。汗ばんだ長い黒髪が、きみの頬にべたりと張り付く。半端に下ろされたブラインドから差し込む夕日が、きみの顔の上に、暗いオレンジと黒の虎模様を描いている。

「わたしも、完結した存在に生まれたかったな。サカナコみたいな、完全な存在に。外から何かを受け入れることを強制されることもなく、内に棲む者を外に出す必要もない者に」

「何故?」

「だって、そうすれば、一人で生きていける」

 きみはうなだれて、両手で顔を覆った。泣いているかのような姿勢なのに、きみの手のひらは涙で濡れることはない。涙すら出ない。それが、きみの哀しみの深さを物語っていた。

 そんなきみの姿を、寝そべった姿勢のままじっと見上げて、サカナコは囁く。

「人と関わるのが苦しいのね」

 サカナコは上空に腕を伸ばす。顔を覆ったきみの手の甲を、自身の手の甲で、さっと撫でる。きみは身じろぎもしない。シャッターのようにぴたりと閉じてしまったまま、きみの手は開かない。サカナコは静かに続ける。

「わたしの話を聞いてくれる? わたしはね、一人じゃない。一人と六匹。永久に、一人にはなれない。だけど、傍目には、一人に見えるのね。わたしに関わった人は、みんな、あんたは完結しているから、わたしなんか必要ないでしょうといって、離れていった。あんたはサカナのことしか――自分のことしか――考えていないって。軽蔑されたわ。なじられもした。でもね、仕方がないの」

 サカナコの瞳の奥に、暗い影が揺れた。けれど、サカナコは、微笑んでみせた。

「仕方がないの。他の人は、わたしから離れることができるけれど、わたしは一生、サカナたちと離れることは、できないから。だってわたしは、水槽だから。人の姿をしてさえいなければ、誤解を受けることもなかったのだけれど。――あんたも、人の姿をしてさえいなければね。だって、あんた、音楽だもの」

 はらりと花びらが落ちるように、きみの両の手が、きみの顔から離れた。きみは、絶句していた。驚きに見張った目で、一直線にサカナコの顔を見つめる。どうして、と、きみの目は訴えていた。どうしてわかるの。あまりにセンチメンタルだから、誰も信じないし、そもそも思い至りもしないその事実を、どうしてあなたは知っているの、と。

「だから、仕方がない。音楽は、聞き手が存在して、初めて成り立つものだから。どんなに苦しくても、それはもう、仕方がないの」

 サカナコは両腕を伸ばし、その指先で、きみの両頬に触れる。ひんやりとした手のひらをきみの肌に沿わせて、包み込む。そして、囁いた。憐れむように。慈しむように。今にも壊れそうなガラス細工を、そっと大事に守るように。

「可愛そう、ね」

 サカナコの手に包まれたまま、きみは瞳を閉じる。大きく息を吸い、その三倍の時間をかけて、息を吐いた。胸の中の淀んだ空気と、新しい空気とが、入れ替わる。何ヶ月、あるいは何年かぶりに、こんなにまともな呼吸ができたと、きみは思う。瞳をゆっくりと開く。砂漠のように乾いてしまっていたきみの瞳の水晶体に、うっすらと、海水が膜を張っていた。

「……サカナコ、わたし、あなたに、たぶん、いいたい言葉がある」

「それは」

 きみの頬に伸ばしたままの指先を滑らせて、サカナコは、きみのくちびるを押さえる。そうやってきみの言葉を遮って、続けた。

「言葉じゃなくて、音楽で聞かせて。それを、そこの坊やと一緒に、わたしは聞きたい」

 そこの坊や。
 言いながら視線を投げてきたサカナコとまともに目が合って、僕は心底驚いてしまった。大げさなほどに身体がビクリと跳ねて、そのまま固まってしまう。サカナコの目線を追って、きみがこちらを振り返る。きみの水晶体に、僕がうつる。それを意識した途端、いたたまれなくなった。

 きみが音楽ならば、と、おこがましくも、僕は思ってしまったのだ。

 僕は、欠陥品の受信機だ。たったひとつの周波数しか拾えない。どんなに耳を澄ませても、世界のすべてがホワイトノイズにしか聞こえなかった僕が、誰か、どこかに、僕に聞こえる音はありませんかと、声を枯らし叫びながら世界中をさまよった果てに、とうとう見つけた僕の音楽。それが、きみだ。なんて、言ってしまえたらいいのに。こんな話、あまりにセンチメンタルで、きっと誰も信じないと僕も思いこんでしまっている。

「勝手に入って悪かったよ……サカナコ。流布(るう)、きみを探しにきたんだよ。帰ろう」

 サカナコに謝罪しながら、きみの元へと歩み寄る。僕は、きみの名前を呼ぶ。きみは、僕を見上げる。僕の差し出した、頼りない手のひらを見上げる。いつも通りの無表情で。いつも通りの、人形のように美しい顔で。じっと、黙って、見つめる。

 きみがサカナコに告げようとした言葉は、一体なんだったのだろう。それは、僕のような、きみから受け取るばかりの――きみを消費するばかりの――存在にも、聞こえる言葉だろうか。サカナコは、僕と一緒に聞きたいといってくれたけれど。

 自信がなくて、僕は不安になる。けれど、差し出した手のひらにすべらかな手触りを感じて、僕ははっとする。自信がないまま差し出した僕の手を、きみは握り返してしまった。ぐっと力を込めて、きみが立ち上がる。ぐっと支えて、僕が引き上げる。

 あぁ、つながってしまう。

 関わってしまう。

 それを、きみ自身が、選び取った。それが、この夏の結末なら、僕はもう、それだけで生きていける。

 
FIN
(2014/7/23 作)

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