きみのひとでなし

「すごく報われる世界」チラ見せ

「すごく報われる世界」という作品は、これまでにも期間限定でチラ見せしては消すという作業を繰り返しているので、どこを見せて、どこを見せていないのかが、もはやわからない。

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 fの患者は何十年も前から存在していたといわれるが、病名がつけられてからまだ十数年と歴史が浅い。患者数は百人に一人とも、千人に一人ともいわれ、正確な統計が出せるほどのデータが揃っていない。
 校内に自分以外のfがいないかと、きみは毎日、必死に周囲を観察していた。いるのなら教えて欲しかった。この癒えることのない喉の渇きを満たす術を。fでない他者には決して理解されることのない、この苦しさを扱う術を。
 なによりも、贄を得る術を。
 毎日、十分な量の贄を摂取することができれば、生活に支障が出るほどの体調不良には襲われない。だが、きみには、自力で贄を得る手段がなかった。自力で得られぬ場合は、与えてもらうよりほかにない。つまり、刻印からの直接摂取だ。きみは、それが嫌だった。耐え切れないほどに嫌だった。毎晩、自室のベッドに仰向けにされ、両の膝が胸につくほど脚を押し広げられた姿で、左の内腿にある刻印を舐める薫子さんから、贄を与えられなければいけないことが。
 きみは毎晩、手に汗を握る心地で考えていた。
 ――このまま、贄を得る手段が得られなければ、わたしは一生、これを続けることになる。
 その予感は、絶望に似ていた。
 だからきみは、ヒントを求めてさまよい歩いたのだ。常に周囲をキョロキョロと見回し、通り過ぎる贄を見つけては、追いかけた。必死だった。卓越したfは、他者の心を揺るがすことで贄を引き寄せる。わたしも引力を得たい、得なければならない、なんとしてでも。悲壮なまでのその決意が、きみを駆り立てる。
 器楽部のステージで、おびただしい数の金の蝶を全身にとまらせながら、ヴァイオリンを弾く先輩を見る。
 美術室で、金の蝶に囲まれたキャンバスに向かっている同級生を見る。
 彼らは、贄を吸い寄せている。
 ――引力だ。そう、これだ。
 この力の秘密が知りたくて、きみは行動を起こす。
 先輩の体育の授業中に、こっそりとロッカーを漁る。同級生が鞄にしまった交換日記を、勝手に読む。
 目撃されないよう充分に注意を払った。しかし、噂がたつ。噂は、乙女うさぎという拡声器に通され、歪み、ひび割れ、拡散されてゆく。
 それでも、きみは引力を求めずにはいられない。そして、軽音楽部が練習場として使用していた視聴覚室で、とある核心に巡りあう。きみの内腿に刻まれた刻印と、同じかたちの穴のあいたベースギター。きみが十五歳の春のことだ。運命的なこの出会いについては、またあとで話そう。
 とにかく、それからのきみは、道を極めんとする修行僧だった。ベースを手に入れるまでに三ヶ月。手に入れてからも、ベースそのものよりもむしろ、それを扱うための基礎トレーニングに没頭した。視聴覚準備室で、軽音部員の誰かが放置していたベースを勝手に拝借し、転がっていたスコアブックのフレーズをそろりそろりと弾いてみたときから、きみは悟っていた。これは、弾くだの弾かないだのという以前の問題だと。
 たとえば、きみの小指と変わらぬ太さの四弦を、左手の小指一本でおさえる、その筋力。おさえながら高速でなぞりあげても怪我をしないだけの、指先の皮膚の強度。自由な角度で開く中指と薬指、その柔軟性。それを五本の指すべてで実現する、独立性。そして、時間の経過とビートをきわめて正確に把握するだけの、絶対的なリズム感。
 放っておいても一定のリズムを刻み続けるメトロノームのような精度を、きみは切望した。それは、まったく新たなもうひとつの心臓を獲得しようとするのと同義だ。
 すべては、引力のために。
 中学三年生の一年間を、トレーニングと受験勉強に費やす。きみの身体は、ベーシストとして改造されてゆく。十本の指が、それぞれに別の意思を持つ生物のごとく動くようになった手で、中学の卒業証書を受け取ったとき、きみは明確に悟る。
 次のステージへ進まなければならない。
 ただ弾けるだけでは意味がない。そこに引力は生まれない。引力とは、引き合う力の法則だ。誰しもが固有の識別磁力を持ち、他の誰かの磁力に惹かれる。互いの磁力の識別番号が一致するとき、そこに引力が生まれる。つまり、贄が生まれる。という認識にまで、きみの理解は進んでいる。
 きみが欲するのは、贄を生む関係性だ。そのために、すべきことは?
 1、より多くの固有の磁力に対応しうるだけの、汎用性の高い磁力を得ること。
 2、その磁力を、より多くへ向けて、プロモーションすること。
 だから、きみは、ライブハウスのステージに立つことを決意する。
 いちからバンドを立ち上げたりはしない。曲作りやらバンド運営やらに時間を割く余裕はない。百人も入れば満員の小さなライブハウスをいくつか見繕い、ここ数ヶ月に出演しているバンドをリストアップする。多くのバンドマンがSNSをやっている。接触は容易だった。彼らに名前を売り、ライブハウスに出向いて顔を売る。ベーシストとしてバンドで活動したいんですと吹聴して回る。知り合いの知り合い、そのまた知り合いと、形成したコネクションの果てに、サポートのベーシストとして、適当なバンドに潜り込む。
 ステージ上でどのように振る舞えば、どんな音を出せば、より多くの贄が飛ぶのか。サポートに入ったバンドのメンバーの動きを、きみは間近で観察した。対バンのステージを熱心に見つめた。盗むべき技術は山のようにあった。咀嚼し、次のステージから取り入れる。実践の場ははいくつあっても足りない。
 気づけば、七つものバンドのサポートを同時に引き受けていた。
 毎日、毎日、狂ったようにステージに立つ。
 きみは、観客ではなく、贄を見ていた。
 ライブを重ねるたび、増えてゆく贄の数を、ひたすらに数えていた。
 贄の増加は、きみに愉悦をもたらす。強烈な快感だ。きみという核心に巻き起こる引力は、あらゆるものを引き寄せる。視線。熱。ときめき。羨望。欲望。そのすべてが金の蝶となり、きみに群がる。
 かつてきみを苦しめた、絶望に似た喉の渇きは、いつのまにか消失していた。
 贄さえあれば、と、きみは悟る。
 わたしは、自由でいられるのだ!
 だから、きみは気がつかなかった。捕贄に夢中で、油断していた。きみは、最初から、狙い定められていたというのに。手遅れになるまで認識できなかった。いや、手遅れになるように、仕向けたのだ、ジュノが。
 ジュノも必死だった。徐々に距離を詰めるのではなく、たった一度の接触で、きみを捉えなくてはならなかった。ジュノが持っているのはジョーカーだ。ジョーカーの効力は一度きり。失敗は許されない。ぶっつけ本番で、だけどあらゆるパターンを想定して、十分すぎるほどシミュレーションをして、そして。
「知っているよ、きみのこと。十年前から」
 五十回を超えるであろう間接接触を経て、ジュノはようやく、きみとの直接の接触に至る。

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