きみのひとでなし

「すごく報われる世界」チラ見せ。たぶんとても重要な箇所。

もはや書き終わらない気がしている、永遠の未完成作品「すごく報われる世界」より、チラ見せ。
わたしがこの作品で何を書きたいのか、というのは、この部分を読めば、だいたい全部わかるような気がする。
結局、そういうことについて書きたいんです。

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 自宅に帰ったきみの異変を、きみの母はひと目で察知する。
「流布ちゃん、どうしたの、何があったの!?」
 母はきみの真正面に立ち、きみの両肩を握りつぶさんばかりに掴んで、揺さぶる。
 事実、きみは変貌している。穴が空く前と後で、きみはまったく別の存在としてそこに立っている。しかし、それについて説明はできない。きみの変貌は、言葉によって定義できるような事象ではない。
 きみは、母によってただちに病院へ連れて行かれ、正式に診断が下される。
 フジカワ・ガミトザイミ症候群。
 ここ十年で患者数が顕著に増えている、疾患の名だった。
 唐突に失神、昏睡、痙攣を起こし、酷い場合は死に至る。平時から音や光に過敏となることがあり、幻聴や幻覚を伴う。発作的に泣き出すほどの感情の揺れに囚われる。おおよそ十歳から十四歳までの少年少女に発症し、その症状は完治せず生涯続く。
「原因は、血中のクリファ値の低下に伴う、ホルモンバランスの崩れだとされています」
 きみを診断した女医は、テレビの中の女優のように、ぴったりと膝を揃えた濃い肌色のストッキングの両足を斜めに流した姿勢で、にっこりと笑ってそう告げた。
 この女医への受診は、きみの母の強い希望によって決定された。自宅から電車で五駅も先にある内科だった。近所に女医さんがいないから、ときみの母は説明した。
「女医さんじゃなくちゃだめよ。ぜったいに、だめ。わたしの大事な流布を、男の医者になんて診せられるわけがないでしょ、汚らわしい」
 きみの母は吐き捨てるようにそう云ったのだった。
「――ですから、意識的にクリファを摂取していきましょうね。だいじょうぶ、クリファ値さえ一定に保っていれば、日常生活に支障が出るほどにはなりません。お母さん、ご安心なさってください」
 完璧な商品のような笑顔で、女医は語る。
 わたしよりも、薫子(かおるこ)さんの安心が先なのか、ときみは思う。
 薫子さんを安心させなければいけないほどのビョーキなのか、とも思う。
 薫子さん、と、きみはきみの母を名前で呼ぶ。背中に汗の滲んだセーラー服姿で、きみは小さな灰色の、背もたれのないくるくる回る丸い椅子に座っている。きみの真後ろで薫子さんは、寄り添うというよりは、きみの背に己の腹を押し付けるようにして、立ち尽くしている。両の手のひらで、きみの両肩を強く押さえつけている。きみが身じろぐと、ぐっと力が込められる。痛い、と、きみはいえない。やめてといえない。きみは、喉が渇いて仕方がない。
「人の感情の喜怒哀楽――いずれでも構いません。それが大きく揺さぶられたとき、ヒトは、第七頸椎の周辺から、クリファという物質を分泌します。分泌の際には、全身に、寒気に似た感覚が走ります。よく、感動で鳥肌が立った、なんて言うでしょう。あれが、クリファが分泌されたときの症状です。クリファは、皮膚を通過して、空気中に放出されますが、粒子が極めて細かいうえに、無味無臭。ですから、ヒトには知覚することができません。ですが、クリファを肉眼で見ることができる人たちが存在します。それが、フジカワ・ガミトザイミ症候群――通称、f〈エフ〉の患者さんたちです」
「じゃあ、流布も……この子にも、見えるんですか、その、クリファが」
「ええ、そのはずです。流布さん、金色の、蝶のようなものを見ませんでしたか?」
 きみは、カクンと首を折って、頷く。女医も、頷き返す。女医は、机の上に立ててある分厚いクリアファイルの中から、左上をホッチキスで止めた、三枚綴りのプリント用紙を引き抜き、薫子さんに差し出す。
「何故、〈f〉の患者さんには、クリファが知覚できるのか。それについては、諸説あります。体内のクリファ値の低下によるホルモンバランスの崩れが、脳の視覚野に影響しているのではないかというのが、現在、もっとも支持されている説です。〈f〉の患者さんによると、クリファは、金色に光り輝く細かな粒子が無数に集まったような形状で、その大きさ、動きは、アゲハチョウに酷似しているのだそうです。そして――ここからが大切です。空気中へ放出されたクリファは、それが分泌される原因となった対象――つまり、その人の心を大きく揺さぶった相手に吸い寄せられ、その体内へと吸収されていくんです」
 女医はここで一呼吸置くと、きみと薫子さんの顔を交互に見つめた。ふたりとも、いまひとつ現実感のないような表情を浮かべている。日本語としては理解できるけれど、何を云われているのかわからない。そんな面持ちだった。
 それは〈f〉と診断された患者の典型的な態度だった。想定内だというように女医は頷いて、続きを語り始める。
「ヒトは、体外からクリファを吸収することにより、血中のクリファ値が上がり、ホルモンバランスを正常に保つことができます。その際、自己肯定感、達成感、自己顕示欲……、そういったものが、深く、強く満たされるような感覚を覚えます。かつては心理学の研究分野とされてきたそれらの感覚が、クリファという物質の発見により、内科的なアプローチで研究することが可能になったんです。〈f〉は、クリファ値が異常に下がりやすく、上がりにくい疾患です。毎日、クリファを大量に、体外から接種する必要があります。〈f〉の方々の間では、クリファは、贄〈にえ〉と呼ばれているそうです。三度の食事のように接種しなければならないものですから、この呼び名がついたのでしょうね。ですから、〈f〉の患者さんは、より効率よく贄を接種できる職業――音楽や演劇といった芸能職や、スポーツのような、リアルタイムに他者の感動を呼びやすい分野に進む方が多いんですよ。」
「――ですが、先生、この子には……そんな、特別な才能なんて、何も……」
 弱々しく、薫子さんがつぶやく。
 その、途方に暮れたような声音に、きみは、サッと体温が下がるのを感じる。
 ――特別な才能なんて、何も?
 何も、ないと、言い切られた? ――わたしは、今、薫子さんに?
 女医は、きみの様子に気づかない。女医は薫子さんだけを見ている。薫子さんの動揺を認めると、その言葉を待っていましたとばかりに、大きく頷き、微笑む。プリント用紙をめくり、なにやら項目を指し示す。完璧に準備されたその流れに、きみは、テレフォンショッピングのアナウンサーを想起する。今なら、お値段据え置きで、もうひとつお付けします! そう文言を変えても成立するであろう明るい声音で、女医は続ける。
「お母さん、ご安心ください。クリファの接種方法は、二種類あるんです。今、お話しした、金色の蝶のようなクリファを吸収するのが、間接接種。もうひとつ、直接接種と呼ばれるものがあります。〈f〉の患者さんのほとんどが、こちらの方法を選択していらっしゃいますよ」
 そして、女医は語った。
 間接接種だけで、生きるのに充分な贄を得られるのは、ほんの一握りの〈f〉にすぎない。芸能やスポーツの才能に恵まれた、特別な者だけだと。その他の一般的な〈f〉は、直接接種によって、生きながらえてゆくのだと。
 直接接種とは何か。
 〈f〉の患者は、発症の際かならず、身体のどこかに、ギターのfホールに似た形の傷を負う。それは、決して癒えることのない火傷のあとのようなもので、患者の間では、〈刻印〉と呼ばれている。この〈刻印〉に、他者が直接、口を付け、粘膜同士の接触によって、贄をそそぎ込む――それが、贄の直接接種なのだと。
「直接接触においては、感情の起伏によるクリファの分泌は、必要ありません。舌の粘膜と、〈刻印〉の粘膜とが接触することで、クリファと同等の物質が、舌の粘膜から分泌されます。……とはいえ、〈刻印〉は、胸や、太ももや、背中といった部分にできることが多いですから、誰にでも、口づけさせるというのは、はばかられますよね? ですから、多くの〈f〉の患者さんは、信頼できるパートナーを見つけ、その相手からクリファをもらっていらっしゃいます。早くにご結婚なさる方も多いですよ」
 女医は語った。明るい笑顔で。これが、多くの一般的な――特別な才能のない、凡庸な、何者にもなり得ない――〈f〉という名のモブにとっての、幸福、なのだと。
「やっぱり、パートナーに愛されて、守られて、支えられて生きていくのが、しあわせですよね。特に流布さんはね、女の子ですもの」
 テレフォンショッピングの笑顔で、女医は最後に、そう言い添えた。
 その言葉に、きみはほとんど、絶望する。
 それが絶望という感情だと説明できるほどの語彙が、当時のきみにはない。まるで、堅いレンガで後頭部を殴られた挙げ句に、そのレンガを開腹手術で腹に詰め込まれ、そのまま生きていくのがあなたの幸せなのだと、笑顔で言い放たれたようだと感じた。
 何の罰だろうかと、きみは考える。きみは、山羊を食べてなどいないのに。

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